太田光はコラムニストで(も)ある。

「TV Bros.」の一番後ろのページにおいて、2002年6月現在も絶好調連載中のエッセイ『天下御免の向こう見ず』で、彼の文才はもーこれでもかってくらい有名となった、と思います。

何せ、そのジャンルは広いです。子どもの頃の思い出を読んでいたと思ったら、いきなりそれが想像の世界にすりかわったりする。かと言えば、さすがは社会派。きちんと巷を引っ掻き回す事件に冷静な彼なりの意見を差し挟んでいく。「文章の上手さ」という一点においては、最終的に「語りおろし」の本しか出さなくなった松本人志氏より太田光氏のほうに軍配が上がるでしょう。それはともかく。

今、筆者は上の文章で半分だけウソをつきました。それはどれでしょう?

答えは下の引用文の中にあります。

「『社会派漫才』」
「私たちは、人からそう呼ばれる。」
「政治や社会現象をネタにするからだろう、人は私達を見て、"世の中に対して、何か言いたいことがある二人組"だと思うらしい。」
「実際は言いたい事など何もない。」(『爆笑問題のピープル』(幻冬舎、1998年)あとがきより)

…筆者は最初、"何か言いたいことがある太田さんと、その他約一名"だと思ってましたが(笑)。

「『爆笑さんが、漫才を通して訴えたい事は何ですか?』」
「こんな質問をよく受ける。」
「"爆笑さん"と呼ばれるような人間に、世の中に訴えたい事などあるだろうか。」
「人を笑わせたい。それだけである。」
「『漫才を通して訴えたい事』」
「そんなモン、ない。」
「訴えたい事があるなら、漫才は通さない。」
「政治腐敗も、凶悪事件も、全て、私達にとっては笑わせるための素材でしかない。」
「『爆笑さんが、最近、気になってる事件は何ですか?』」
「気になる事件など何もない。」
「おそらく私達は、キティラーの女子高生以上に、世の中に対して何の興味も持っていない。」
「私が興味を持つのは、いかにして笑わせるかという事だけである。田中などは、それすら興味がない。」
「経済がうまくいこうが、いくまいが、政治的に合意しようが、するまいが、白でも黒でも、右でも左でも構わない。」
「ソレがネタに出来るかどうか? それだけだ。」(同上)

筆者は思います。その生き様自体、充分訴えかけてるものがあるよ、と。

そして「訴えたいもの」があった時、彼はそれを漫才ではなく、前述のエッセイ等の文章に託するわけです。
よって、漫才師やコメディアンとしての太田さんは社会派ではないけど、エッセイストとしての太田さんは社会派だと思います(だから「半分だけウソ」だったんですよ)。

が…

実はそれ以外にも、彼が何かを訴えようとしている…ように見える…気がする…ものがあるのです(←何だそりゃ)。

それが、『秘密の!! 超[スーパー]爆笑大問題』(札幌テレビ、NTV系全国放送)内の超人気コーナー、「コラム」なのです。
何が大人気かって言いますと、このコーナーそのものが『爆笑問題のザ・コラム』(講談社、2002年)という名の本になって、そこらじゅうの本屋で売り切れ続出というファンとしても涙を出さざるを得ない事態となったからです。いや、本になると聞いた時点で嬉しかったけど…

これは『筑紫哲也ニュース23』とかで筑紫氏がやってるようなコーナーのパロディで、漫才形式のコラム、と考えるのが最適です。

例を挙げましょう。暗がりの中、淡いスポットライトを浴びながら、原稿を持って突っ立っている太田さんを想像して見て下さい。

「今日のテーマは『老後』です。皆さん、老後について考えたことがあるでしょうか。私はある日、薬を飲もうとして使用上の注意を見ると、『一日三回必ず老後にお飲み下さい』と書いてありました。」
「田中>それは『食後』だろ!
「なので、慌てて老けたことがあります。」
「田中>そんなわけねぇだろ!」(前述の『爆笑問題のザ・コラム』より)

きっとご存知でないかたも、その後ろの司会席で座りながらツッコミを入れてくる田中さんの姿を想像できたことでしょう(←無理だよ)。

そう、これぞ爆笑さんが最大限にその力を振るうことの出来るフィールドである"漫才"。コラムなのに漫才。こんな素晴らしい企画、誰が思いついたんでしょうか。

…しかし、ここで疑問に思うのは、「何でわざわざコラムにしてるんだろう? 普通の漫才にすればいいのに」という点です。

甘い! 甘いぞドモン!! ならば次のコラムを読み、己が眼を確かめるがよい。

「今日のテーマは、みんなが大好きな『ミッキーマウス』。」
「『僕らのクラスのリーダーは、ミッキーマウス、ミッキーマウス、ミッキー、ミッキーマウス』。」
「子供のころ、この歌を聞くとちょっと
違和感を感じました。何でクラスのリーダーなんだ。確かにミッキーマウスは大好きだけど、友達でも仲間でもなくて、何でクラスのリーダーでなければならないのか。」
「田中>いいじゃねえかよ。
「子供のころはとても不思議に思ったものです。考えてみれば、私が生まれて初めて感じたアメリカというのは、ミッキーマウスだったかもしれません。この、歌も踊りもスポーツも全てに万能なアイドルを通じて、アメリカという国に親しみやあこがれを持っていった、そんな気がしています」
「もしかしたら、アメリカはそんなふうにしてミッキーマウスを通じて世界に進出していったのではないか、世界中を洗脳していったのではないか。」
「田中>そんな怖いこと考えてるの?
「そう思ったときにあの歌詞の意味がわかるような気がするんです。『僕らのクラスのリーダー』、そう、ミッキーマウスは頂点に立っていなければならない。友達でも仲間でもあってはいけない。常にリーダーでなければならない。この場合のリーダーというのは、コント赤信号のリーダーとは違う。」
「田中>わかってるよ!
「世界のリーダーという意味です。ディズニーランドのエレクトリカルパレードの中で、シンデレラや白雪姫やピノキオといったすべてのキャラクターの頂点に立って踊ってるミッキーマウスを見たときに、何かそこに恐ろしいものを感じるのは私だけでしょうか。」
「田中>おまえだけ。絶対おまえだけ!」(同上。傍線引用者)

…田中さんのツッコミに、あなたは素直にうなずけるでしょうか。
2002年初冬のソルトレイクオリンピックでのアメリカの姿…イギリス等様々な国から批判されたアメリカの報復攻撃…
それを反米感情をむき出しにするでもなく、「笑い」として完成させて主張する。
結果として、時折太田さんのボケが本当にボケ(=虚構)なのか田中さんのツッコミが本当にツッコミ(=真実)なのか。それがわからなくなってしまう。
それが「太田コラム」の魅力だと、筆者は思います。

(ちなみにこのコラムがオンエアされたのは1998年11月16日。トンでもねぇ先見の明です)



もっとも…真に漫才のネタを文章化している太田さんの代表作『爆笑問題の日本原論』(現在は「サイゾー」にて連載)においても、例えば「JCO臨界事故の巻」(『爆笑問題の日本原論世界激動編』(幻冬舎、2002年)に掲載)などでは、

田中――確かに、今回の対応の悪さは他の国からも批判されてたよね。アメリカの学者なんかは、とても唯一の被ばく国とは思えないって言ってたらしいからね。
太田――誰のおかげで、被ばく国にされたと思ってんだかな。
田中――それとこれとは問題が別だよ!

…と、田中さんのツッコミが妙に浮いて見え、太田さんのボケこそ一理あるのではと思ってしまう、そんな漫才を書く辺り、

「じっくり考えて、意味のある言葉を発したいとは思わない。(中略)そして、今よりもっと無意味な存在になりたい。」
「社会に対して言いたいことなど何もない。私のネタにはメッセージなどない。ウケればそれでいい」
(『爆笑問題の日本原論2000』(メディアワークス、1999年)あとがきより)

という彼の意思とのジレンマが感じられて、ますます彼のことが好きになる要素に満ち満ちているのですが。以上余談でした。



…しかし、ここで疑問に思うのは、「何でわざわざ漫才にしてるんだろう? 普通のコラムにすればいいのに」という点です。

甘い! 甘いぞドモン!! ならば次のコラムを読み、己が眼を(以下略)

「今日のテーマは『俗悪番組』です。」
「先日、NHKと日本民放連が設置した放送と青少年に関する委員会で、フジテレビの『めちゃ×2イケてる』の中の『しりとり侍』のコーナーと、テレビ朝日の『おネプ!』の中の『ネプ投げ』のコーナーが、青少年に悪影響を与える恐れがあるという見解がなされました。両番組では早速それぞれのコーナーを打ち切りにするということを発表しました。」
「昔から俗悪番組と言われた番組は、今振り返ってみると、それまでのバラエティーの歴史を覆したような素晴らしい番組ばかりです。『うわさのチャンネル』『8時だヨ! 全員集合』『オレたちひょうきん族』。どれもテレビ史に残る名作です。」
「確かに、それらの番組は当時少年だった私にたくさんの悪影響を及ぼしました。番組をまねて悪ふざけして友達をいじめたこともありました。しかし、番組が私に与えた影響はそれだけではありませんでした。人を笑わせるということがどれほど素晴らしいことか。ずっこけてみせるということがどんだけ人を楽しませることか。既成の枠にとらわれないということがどれほど楽しいことか。そういったことを私はこれら俗悪番組から学んだような気がします。そして、それが私の原点になったようです。」
「当時の子供たちだって、それらの番組が大人から批判されていることぐらい知っていました。でも、どんなに批判されても面白いものを作るという信念を制作者が曲げなかったからこそ、われわれは毎週楽しみにその番組を信用して見たんではないでしょうか。子供は大人が思うほど子供ではありません。子どもが見ているのは番組の中のことだけではないと思います。」
今回、二つの番組がコーナーを打ち切りにしたことが、毎週その番組を楽しみにしている子供たちにどういう影響を与えるのか。
(傍線引用者)

…勢い余って、ほとんど丸ごと引用してしまいましたが(死)。
このコラムを見ていた筆者は、思わずTVの前に正座してしまいました。
しかし…

「もし、われわれ爆笑問題の番組の中のコーナーが青少年に悪影響を与えるということで打ち切りを要請されたら、たとえその相手が大きなテレビ局であろうとも断固戦って、それでも合意できなければ最終的には番組を降りると田中は言っています。」
「田中>ちょっと待てよ、俺だけかよ! おまえはどうすんだよ!
「私はもちろんテレビ局、スポンサーの意向にすべて従います。」
「田中>待てよ、おい。
「NHK並びに民放連の皆さん、今後とも私、太田光をよろしくお願いします。」
「田中>ずるいぞ、おまえ!
「以上、コラムでした。」

そう…あまりにもあっさりと、太田さんは裏切ってくれました。もちろんいい意味で。

「松っちゃんが『ガキ使』で昔よく使った手。『…と浜田が』ってよく言ってた」などと言うなかれ。松っちゃんが言うのと、太田さんが言うのではその意味が違います。

太田さんは、テレビ局やスポンサーに追随してしまう――せざるを得ない――人々の姿そのものを、"笑い"に変えて表現しようとしたのです。

例えば『おジャ魔女どれみ』。スポンサーのバンダイさんが、そのおもちゃを販売し、その売り上げで製作費用を出している。よって、いかに『どれみ』と言えどその表現はある程度制限されてしまいます。毎回毎回必ず、誰かが意地でも魔法を使おうとするのはその影響でしょう。主人公たちが魔法をかけることによって、その時使われる魔法のアイテムのおもちゃが宣伝され、子どもの購買意欲をそそる。しかし、それは当たり前のことなんでしょう。アニメを作るにはお金がかかる。続けるのにもお金がかかる。アニメに限らずとも、テレビ番組とスポンサーさんとは切っても切れない仲なのは言うまでもないことなのですから。

きっと太田さんは、そんなアニメ界の状況…はともかく(笑)、お笑い界の状況――総じて言うなら「マスメディア」の状況も、批判したくはないのでしょう。何故ならそれは、仕方のないことだから。それを変えようとしたら、一体どれだけの犠牲を払わねばならないのか、想像もつかないし…何より、そこに「笑い」は生まれない。

だから…せめて「笑おう」と。彼はそう思ったんではないでしょうか。
自分が持つ最大にして、唯一でありたいと願う「笑い」の世界で、こんな悲劇を笑い飛ばしてやろうと。

このコラムが、彼らも親睦があるナインティナインやネプチューンへ向けたメッセージであり、あんなわけのわからないイチャモンでコーナーが打ち切りになってしまうという不条理に、それこそ「悪影響」を持ったかもしれない子どもたちへ向けたメッセージでもあるのではないかと。
筆者には、そう思えたんです(ま、『爆笑大問題』は深夜番組ですけど…)。

…この日、筆者には彼が、小林よしのりさんよりも、松本人志さんよりも輝いて見えました。
そう、(矢田×)はづきよりも。デュオよりも。翔子よりも。オーフェンよりも。シロー隊長よりも。シュバルツよりも。関先生よりも。コミクロンよりも(←もういいよ!)。

こんな素敵なコーナーを、番組が始まった98年秋よりずっと続けてきた太田さん、及び田中さん、そしてスタッフの皆さんを、筆者は尊敬します。



で。
それに憧れて、筆者が作っちゃったのがこのコーナーというわけなのでした。
あの素晴らしさを再現なんて無理無茶無謀もいいとこなので、とりあえず『おジャ魔女どれみ』ネタで攻めてみることにしました。
「コラムのパロディ」の、そのまた「パロディ」。稚拙ですがどうかお楽しみ下さい。
そしてもし筆者の文章を不快に思われても、決して太田さんたちにまで悪感情を持たれませんように…

以上、駄文でした。


公開日:2002年06月16日
第一次修正:2002年09年23日