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   第一章 第一印象は最悪だった

「人生が……うまくいってないみたいなんです」

 そう、うめく。彼の決して低くないボキャブラリーをもってしても、これ以上の表現が見つからなかった。

 この台詞を言うのは、これで二度目だ――不意に思い出す。キムラック教会設立以来始めて、不可侵の存在たる《フェンリルの森》に対し、破壊活動を行った時だ。無論、実際に行動を起こしたのは彼ではない。確か、あの時は……

 ………………

「どうした?」

 突如頭を抱え、否、机に頭を叩きつけ、あまつさえ額のバンダナ越しにちょろっと血を流しているその彼の様子を見て、さすがに疑問に思ったのだろう、彼女が聞いてきた。

 その詰問には答えず、彼はつぶやく。

「……何にも……、何にも、変わっちゃいねえ…………」

 今度こそ頭を抱え、言う。そう、変わっていない。何もかも。

 ある意味、それは凄いことなのだろう――素直に認めた。多かれ少なかれ、人は変わるものだ。不変のものがあるとすればそれは人知を越えた存在――いや、概念だ。精神とも言える。物理的に存在しないものの総称、という意味で。

 と、ゆーことは。

(……それこそ常世界法則(システム・ユグドラシル)か、よくて深淵の森狼(ディープ・ドラゴン)ってとこか。くそったれ)

 さっぱりわからない自己完結を行って、彼は顔を上げた。仏頂面のままの目の前の魔女(・・)に向かって、すがるでもなく視線を向ける。色々疑問はあったが、そんなことよりもまず何よりも解決したい――そして、たぶんどーやっても解決しそうにない――根源的な問題が、自分には今も昔もあるのだ、と訴えつつ。

 ()の名は、オーフェン。元・大陸最強の魔術士。だが今彼がいるのは、大陸(キエサルヒマ)ではない。



「……お師様」

 独房――らしき地下(?)室――で、マジクがつぶやく。差し入れられた、夕食のパンをほおばりながら。よって、さほど悪い待遇というわけではなかった。

 そもそも、クリーオウ一人を別室にしてもらえた時点で、彼女たちの敵意の少なさは見て取れた。まぁ、敵意のあるなしに関わらず、自分たちへの処分は下されるのだろうが。

 それよりも、彼らには解決すべき問題があった。

 マジクは続ける。彼の師に向かって――

「今までお世話になりました。あとはお師様で何とかしてください。ぼくだけは無関係なので、事情を全て説明してぼくだけ帰してもらうことにします。それからのことは知りません。何とかして生き延びてください。それじゃ」

「逃がすかぁ、あほたれぇぇ!!」

 力任せに殴りつける。まぁ、いつものことだ。

「ったく……何度言ったらわかる!? あれが不可抗力で、人身事故で、不幸な偶然だということが!? 俺には何ら責任はないはずだ、本来は!!」

「そう説明して、クリーオウがわかってくれると思います?」

「カケラも思わんから、苦心しとるんだっ!!」

「ですよねぇ」

 弟子のほうも、手馴れたほうだった。無論、この師が手加減なしで自分を殴ろうものなら、頭を抑えながら幅涙を流しつつ治癒の魔術の構成を編む程度のことでは済まなかったろうが。

「大体罪のみそぎなら、とっくの昔に終わってんだ!! あれだけあの黒い悪魔の攻撃を浴びせまくれば、あいつだっていい加減機嫌直すのが筋ってもんだろうが!?」

「そのついでに、何故かレキの暗黒魔術があーなってこーなって、どーいうわけかこんなヘンな場所に転移しちゃってた辺りが、人生の黄昏(たそがれ)まっしぐらって感じですがね」

「気にするな。この程度の珍事なんて、俺が去年の冬トトカンタにいた頃はヘでもなかった」

「確かに……」

 うなる師弟。彼ら二人の脳裏には、何故か銀髪オールバックのタキシード姿の、要はどうということのない執事の姿が写っていた。何故か。

「やっぱりこれって、あの人(・・・)なんじゃないですか?」

「……さあな。その可能性も充分にあり得るが、けどまあ、どうでもいいことだろうが、この際。今、何より問題なのは――」

「わかってますよ。彼女の機嫌でしょう?」

「ああ……今の俺たちの持てる全ての能力(タレント)を駆使して奴をどうにかしない限り、俺には決して平穏かつ平和、そして猫一匹だけが側にいるよーな人並みな幸せは一生手に入らない」

 嘆息して言う師に、マジクは汗を一筋たらしながらツッコんだ。

「……それって、例の(・・)海賊王≠ノなる野望(ゆめ)より難しいんじゃありません? お師様の場合」

「うるせえな。俺は平穏な生活を手に入れるためなら、略奪者はおろか海軍の賞金首になろうと一向に構わない。ここだけは、決して退かんぞ」

「何か、修正不可能なくらい矛盾してるような……」

「気のせいだ」

 断言し、話を切り上げるオーフェン。彼はそのまま、記憶をたどりだした……思い出したくもない記憶を。

(確かにあの時、俺は死にかかった)

 それが何度となく、日常も非日常も問わず、もうしっつこいくらい彼の人生に起こっている時点で、もう決定的に致命的というか、何と言うか。

(黒い悪魔≠フ――あのじゃじゃ馬が威を借る、ディープ・ドラゴンの暗黒魔術によって、俺は何度となく吹き飛ばされた。もちろん物理的に、だけじゃない。精神だって何度となく攻撃された)

(偶然――そう、あくまでも偶然だ。どこまでも偶然に、俺はクリーオウの水浴び場所に出くわしただけだ……それをあいつが勘違いしただけだ。悪くない。悪いのは俺じゃないんだ……そう思いつつも、俺は必死で防御した。説明したところで聞きゃしねえからな、あいつは)

(そして……大体二、三時間くらい、その状態を続けるうちに、だ。不意に視界が変わって……それが暗黒魔術の精神支配によるものではないと気づいた頃には、既に俺たちはここにいた)

 森を出た彼を待っていたのは、何とも言えぬ不可思議な世界だった。そんな陳腐な感想しか抱けないような、妙な風景。空には虹色の雲が浮かび、地面の色もカーキに近い色。とはいえ、その配色はすぐに変わっていく。子どもが何も考えずに絵の具をぶちまけたような、何ら法則性の感じられない色彩――いや、曖昧なのは色彩だけではない。地面と空の境すら曖昧だった。地平線がいまいち判別できない。「全く」見えないわけではないが、「はっきりと」確認できるわけでもない。定まらない。締まりがない。もっともそれは、自分たち人間種族にとってそう見えるだけ、なのかもしれない。

 見覚えのない植物。曲線を描く建物。そして――至るところに散りばめられた、音符記号。オーフェンにとって音楽は、決して未知の分野というわけでもなかった。実際に、少しなら楽器も弾ける。だからこそ、この世界と自分たちの世界の「文化」の共通点を見い出せた。2つの世界は、全く無関係なわけではない、ということを。

 残る問題は、コミュニケーションをどうやって行うか。意思の疎通は、どんな方法でとられるか。そもそも、交わす言語自体が存在するのか――

(……で、気がついたら。何故かホウキに乗った、ヘンな連中にとっ捕まえられた)

 別に抵抗する気もなかった。正直、現状がしかと確認できていなかったせいで、判断能力が鈍っていたのだろう。だが、何よりも早く情報が欲しかったのは事実だ。

 ここ(・・)は、どこなのか。という情報が。

 しかし、たとえ抵抗していたとしても、それで彼女たちを振り切れたかどうかもまた、疑問符がつく。

(それも――俺たち人間種族の音声魔術でも、ドラゴン種族の使う魔術でもない能力(タレント)で)

 それが確認できただけでも上出来だ――これで彼の迷いはフッ切れた。たった一つだけだが、確かな情報が手に入ったからだ。

 ここは、自分たちの住むキエサルヒマ大陸ではない(・・・・)。という情報が。

 思いの外ショックが小さかったのは、決して彼が徹底的に精神制御(マインドセット)を叩き込まれたからではないし、彼にひっきりなしに襲い掛かる厄介事にとうとう慣れてしまったから、というわけでもない。

 その正しい理由はおそらく、「経験」から来るもの、ということだろう。

(「魔女界」。そう言っていたな)

(俺――つまり、先生も知らない固有名詞ということは……まさか)

「…………?」

 不意に立ち上がった師に、マジクがいぶかった。

「…………あ、いや。考えても仕方ねえと思ってな」

「え……ちょっと!? お師様、諦める気ですか!?」

「そっちじゃねえよ。ただちょっと、別件で気になってることがあってな。出てくる」

「そうですか。じゃあついでに、クリーオウと話して、何としてでも彼女の機嫌を直してやってくださいよ。そうでなきゃ、現状がどうとか元の世界に帰れるかどうかとかを、落ち着いて気にしてみることすらできないんですから」

「へえへえ」

 ぞんざいに答えて、降りてきた――降ろされた螺旋(らせん)階段を静かに昇り始める。鍵はかけられていない。扉すらないのだから当然だが。

(それを一応にでも気にしてるから、居ても立ってもいられねえんだろうが)

 胸中で愚痴(ぐち)るも、弟子の繰り返している発言全てを否定する気にはなれなかった。

 ――クリーオウの機嫌。

 この、自分たちにとって最大かつ最悪、最凶のこの問題を、迅速かつ穏便に解決せねば、次手は打ちようがない――全てが無意味になるからだ。現状分析も、方策も、作戦行動も、全てが水泡へと化す。その点、弟子の指摘は正しかった。

 しかし……そのことがわかっていたからといって、その解決方法が見えてくるわけでもない。

 結局は彼女の気まぐれによって全てが決まるのだから、どうにもならない。

(とりあえず、会ってみる。それしかねえな。出たとこ勝負だ――)

 世の中のどんな問題も、厄介事も、全てはこうやって解決するしかないのかもしれない。

 そう思ったら、何だかちょっぴり絶望的になってきたので、思考を別のところに移してみることにした。

 さっきの独房――いや、「独房」という表現は相応しくないのかもしれない。鍵も扉も存在しなかった以上は。こうやって、看守の許可も取らずに外に出ようとすることができているのだから。

 自分たちに逃げるつもりは最初から――少なくとも、クリーオウの機嫌が直るまでは――ないが、ここまで無用心だと必要以上の勘繰りもしたくなる。それとも、最初から鍵などないのか。

 考えられる原因は三つ――一つは、治安維持システムそのものの衰退。つまりは、統治組織が治安維持に労を費やす必要がないほど、この「魔女界」とやらの住民の規範意識が高いか、それとも望まれる治安のレベルそのものが低いか。二つは、脱走そのものが無意味だということ。セキュリティシステムが極端に優秀ならば、再度捕獲すればよい。よって、鍵をかけるという発想自体が生まれなかった――鍵をかける目的が生じなかったということ。

 そして三つ目は、統治者が果てしなくお人好しで、かつ愚者だということ。

(そもそも、だ。彼女たちは、俺たちの存在を恐れてないのか?)

 自分たちが彼女たちの能力を測れなかったように、彼女たちもまた、自分たちの《魔術》と呼ばれる能力の正体を知らないはずだ。それはもう確認済みである。それなのに――

(さっぱりわからない。少なくともここは《キエサルヒマ大陸》じゃないし、かといって他の(・・)大陸でもない。それはわかってる)

(だが――決して、俺の知っている(・・・・・・・)《並行世界》でもないんだ)

 と。

(ん?)

 不意に、上から降りてくる人物に気づく。すなわち、自分たちに用があるということ。

 それは、見知った顔だった。知ったのはついさっき、それも尋問中にだが。

 名前は――マジョリンとかいったか。魔女だから、マジョ(・・・)リン。出来の悪い冗談のような名前だが、それなら自分の名前だって孤児(オーフェン)だ。人のことは言えない。

「……君か。連絡は返ってきたのか?」

「ええ。ついさっき――人間界(・・・)の夜が明ける寸前に」

「特定の()にしか、その……何だ、『人間界』とやらに連絡が取れないってのも、難儀なもんだな。おまけに互いに昼夜が逆転してるってんだから、大したもんだ。理由はまだ、聞かせてもらえないのかい?」

「話す気はありません。それに、話したところで貴方が理解できるとも思えない」

「そりゃあ、原理についてはわかりそうもないさ。それはともかく――」

 精神を、必要以上に締め付け始めた。彼の全ての存在を賭けて。

「連絡はついたんだな? 『国際警察機構(・・・・・・)』という名前の組織が、君たちの言うところの『人間界』にも存在している、とはさっき聞いたが……」

「そうです」

「なるほど」

 淡白に返答する。だが内心では、動揺を抑えられずにいた。存在していたからといっても、それが自分の知っている(・・・・・)『国際警察機構』とは限らないのだ。

 何も名称の偶然の一致を危惧(きぐ)しているわけではない。暗黒魔術の暴走(?)によって、時間すらも超えていたという可能性も、当然考慮すべきだった。簡単に言えば、かつて自分が訪れた過去か、あるいは未来か、という可能性だ。未来ならまだしも、過去なら最悪だった。

 だからこそ、その「国際警察機構」という組織が、自分の名前を知っているのかどうか、確認する必要がある――その答えを、オーフェンはずっと待っていたのだ。まさか本気で聞いてもらえるとは思わなかった、彼女への頼みごとを。

「で、その組織は、『《牙の塔》のキリランシェロ』という名前を知っていたのか?」

 よって、彼は昔の名前をも名乗っていた。

「さすがに用心深いようですね。安心してください、貴方の名前に心当たりのある担当者から、きちんと返事がされました」

「……へえ」

 平静を装ったが、正直内面を覗かれたら――それが彼女たちに可能であっても、何ら不思議はない――精神制御に失敗していることに、容易に気づかれただろう。

「『本城こころ』という名前に、聞き覚えは?」

「いいや」

 心臓が跳ねる。

「ならば……『明智健悟』には?」

 ビンゴ――指を鳴らし、皮肉げな目元をさらに吊り上げ、うなずいた。

「それだ。国際警察機構日本支部刑事課長――明智健悟。昔、世話になった」

 その一瞬で、絶望と希望のギャップをこれ以上ないくらい味わっていた。

 自然と、表情が緩む――もう限界だった。頬をかきながら、言った。

「…………それなら、当面の身の上の心配はなくなったわけだ。その『人間界』に、俺は面識がある(・・・・・)。正直、随分と気が楽になったよ」

「そうですか」

 抑揚のない口調で、答える。表情も変わらず仏頂面だ。先の尋問の時と、全く変わらない。彼女たち「魔女」が全員行える特技……というわけでもなさそうだ。おそらく、これは彼女特有のものだろう。訓練によって身につけた技能か、単なる地なのかどうかまでは判断不能だが。

「ということは、だ。君たちが住んでいて、俺たちがスッ飛ばされたこの世界は、人間界――俺たち側の名称で言わせてもらえば、《並行世界》――とは大して交流がない。だが、完全に断絶されているわけでもない。そういうことだな?」

「『この世界』ではありません。『魔女界』です」

 否定も肯定もせず、ただ訂正してくるマジョリン。肩をすくめ、オーフェンは素直に謝った。

「ああ、悪い悪い。どうも俺は、その『魔女』という単語に不思議と、因縁があるらしくてな」

「…………?」

「いや、気にしないでくれ。個人的なことだ――それより。問題がひとまず解決したところで、俺は本当に一番危険で、一番厄介な問題を処理しなければならないんだが」

「……何?」

 再び、首を傾げるマジョリン。今度は実際に感情を口に出していた。それだけ、驚いたということだろう。

「あなたがたが飛ばされた世界の内実についての情報以上に、重要な問題があるとでも?」

「そうだ。済まないが、あのじゃじゃ馬――クリーオウのところに案内してくれないか? できれば、大至急」

「………………」

 と。マジョリンは、あごに手を当てて何やら考え出した。オーフェンがいぶかっていると、一言。

「花は――お好きですか?」

「……ああ?」

 そんな唐突な質問に、彼は思い切り表情を歪ませた。

「その彼女は、花は好きなのかと聞いたのです」

「嫌いだと聞いた覚えはないが……何なんだ、急に」

「そうですか。ならば、問題ないでしょう」

「何がだ、何が」

「明日、女王様からの処分が伝えられる予定です。それまでは、部屋で待機していてください。それでは」

「お、おい……」

 そう一方的に言い捨てて、彼女は去っていった。

 その暗がりの中に残されたのは、オーフェン本人と、その彼の心の中のしこりだけだった。


→続き<2/3>

公開日:2002年10月10日
第一次修正:2003年07月08日